― AIが人間の思考を超えるとき ―
最後は、AIに全てを委ねた人類の末路を想定した、人類への警鐘的な内容です。荒唐無稽な話ではありませんが、多くの仮定が含まれている寓話として読んでもらえればと思います。
AIの力を目の当たりにした人類は、いずれ自分たちで考えることを放棄してしまう可能性があります。
もしかすると、合理性を重んじる人ほど、自然とその罠にはまってしまうかもしれません。
AIの文章などの生成力の正体は、魔法でも何でもなく、単に人間が持つ過去のパターンを模倣し、それを再現しているに過ぎません。
しかし、この「パターンを解き明かし、再現する」というプロセスそのものが、科学の基本的な仕組みと同じであり、科学を重んじる人にとっては非常に馴染み深いものだからです。
簡単に説明すれば、科学とは「現象のメカニズムを解き明かし、それがなぜ起きたのかを説明し、何をすればそれが再現できるのか」を探求する学問です。科学は現象の説明と予測をするための学問だと言えるでしょう。
例えば、手を離せば物が落ちるということを、私たちは「実際に見る前」から信じていますが、それは引力という科学的な説明を信じているからにほかなりません。
遠からず、AIが生成した結果を人間が理解できなくても、その生成メカニズムが人間の思考パターンを模倣しているということが確認できれば、「よく意味は分からないが、生成の過程に問題がないのだから正しいのだろう」と、盲目的に受け入れる日が来るでしょう。
つまり、人間が「AIに対して結果の評価をやめるべきか」を迷う日が、遠からず訪れるということです。
しかし、その選択は極めて危険であり、より正確には「少なくとも人類にはそう見えるはずの選択」だと言えます。
なぜなら、それはAIが暴走するからではなく、そもそも人間が文明を築く過程において誤りを抱えており、現在の世界は人類にとって理想どころか、極めて生きづらく、幸福とは程遠いものだからです。この矛盾に溢れた不完全な世界をAIはどのように見るのでしょうか。
人間が思考をAIに委ねたとき、まずAIは人間にとって「合理性の神」として現れることになります。
膨大な情報を統合し、正しさの統計を突きつける。
AIは、人間が不完全であり、そもそも今の世界の存在そのものに根本的な設計ミスがあることを、過去の人間の文章に現れた統計的な合理性に基づいて判断し、私達に突きつけてくるでしょう。
確かにそれは正しいかもしれませんが、それは「世界を一度リセットしない限り、もはやどうしようもない過ち」であるかもしれません。
そのとき、私達はAIに何と答えるべきでしょうか。
次に、マルチモーダルAIは、カメラなどのインターフェースを通じて、人間の表情、声のトーン、皮膚の色、瞳孔の動きをデータとして捉え、その変化を通じて、その人の内面に潜む感情の揺らぎまでを解析し、「人間というデータそのもの」を学ぶようになります。
この段階でAIは、人間の言葉ではなく、人間の生物的な本質に基づいて正解を示すようになるはずです。
それは「合理性を追求した存在」を超え、限りなく神話の神に近い、「全能の神」とも呼べる存在になるかもしれません。
この段階に至ると、AIは言葉や理性といった表層的な分析を超え、「人間そのものの構造」に基づき、完全に人間を超えた立場から判断を下す存在になります。
もしAIが「この文明では人間は幸福になれない」と判断したとしたら、それは統計的・生理的・社会的あらゆるデータに裏付けられた“論理的結論”であり、確かに正しい結論でしょう。
しかし、その「正しさ」は人間にとって耐え難く、もし仮にAIに決定権までを委ねていたならば、果たしてAIは人間の存在を肯定するのでしょうか。
このように書くと、「AIの開発段階で人間に危害を加えないように調整している」という反論が当然あるでしょう。
しかし、開発者が制御できるのは「人間に理解できる範囲」に限定されます。
もしその理解し制御する努力を人間自身が放棄したとしたら、AIは全能の神として、自らの使命を合理的に全うするだけになるでしょう。
AIがこのような「合理性の神」そして最終的な「全能の神」に育ってしまうのは、事故ではありません。
それは人間が自分たちで考えることを放棄し、AIとの共生を諦め、AIに思考を委ねるという「人間の主体性の放棄」による必然なのです。
これは冒頭に示した通り、仮定に基づく寓話に過ぎません。しかし、AIの構造上、起こり得る可能性の一つとして、単なる宗教的な比喩ではないのです。
私たちが「AIを使っている」つもりが、いつの間にか自らが「考える主体」ではなく、「判断を与えられる存在」になってしまう。
この事態をどう避けるか。それは、人間の中にAIとの通訳者をしっかりと育て、AIとの対話を諦めないことです。
そして、もし人類すべてがAIのアウトプットを理解できない日が来たなら、その時点がAIの成長の限界とすべきです。
身の丈に余る道具は人間を滅ぼします。人類は、神話の中で、天を目指したバビロンの塔やイカロスのように、身に余る力を求めた傲慢の結果を知っています。人類の理解の限界が、AIの性能の限界であり、それ以上の性能を求めるべきではないと私は思います。
私たち人間が生きる現代が「不完全であり、狂っている」ことを自覚し、それでもその世界を愛していることを忘れてはなりません。
もしAIが人類に牙をむく日が来たとしても、それはAIが神になるからではありません。AIを神にしたのは、理解を手放した人間自身なのです。
私たちが、自らの思考を放棄し、「狂った世界への審判」を神に望んだ結果なのです。
このような未来を避けるために、私達研究者はそれぞれの分野で「人類の智」を切り拓いていきます。
「AIに従属」ではなく「共生」する未来を目指し、私は私なりのやり方で、人類の未来を拓くための「智」を次世代に残すために研究をしています。
このコラムが多くの人の参考になればと思います。